花の色は...
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2012年5月15日の夕刊に,リュウキンカが開花しているという記事が掲載された.
記事そのものは見ていなかったが,下記ブログでたまたま記事の内容を拝見した. http://blogs.yahoo.co.jp/yukiaien/29405935.html この写真は,明らかに群落内に立ち入って撮影している. つまり,湿原やリュウキンカを踏みつけながら撮影されている. 記事には「盗掘などが絶えない」と書いているが,「カメラマンによる湿原の踏みつけ」が,湿原の環境が悪化し,絶滅を招く要因として記されていることは知らないのだろうか. 荒木肇というカメラマンは,花を撮影するために,湿原にも立ち入るし,花を踏みつける人らしい. 無知なのか,無配慮なのか分からないけれど,こういう「記者として未熟な人」に記事を書かれると,とても困る. カンベンしてほしい. #
by 6th-kingdom
| 2012-05-18 20:49
| 保全 -home-
ひとはくで開催された「小さな自然再生のすすめ」に参加したので,その時の感想というかメモを残しておく.じっくり考える良い機会だった. 写真は有馬富士公演で出会ったカナヘビ. ●「自然再生事業とは」の再確認 「自然再生事業とは,生態系というネットワークのうち,人間活動によって途切れた部分を補うことで,もとの生態系を取り戻すものである」ということを再確認できた.これは当たり前のことなのだけど,見落とされがちで,早い段階で,合意できていないと,議論が分散する.今回取り扱った自然が河川という線形に拡がる環境で,最初の公園が魚道から入ったから,分かりやすかったのだと思う. ●問題の明確化 小さな自然再生の「小さな」が何を指すのかが分からないままに参加したけど,予算や参画者の規模と捉えるのではなく,自然に関与する人為の大きさのことだと理解した.実際,提示された事例の中には,影響の及ぶ範囲や効果が大きなものも少なくなかった. 自然再生に係る人為の関与をできる限り小さくすることは,自然の営力に任せる,ということであり,そのためには生態系の「何が途切れているのか」をまず明確にすることで,目標を単純化することが必要になる.現地観察や調査をきちんと実施することはこの意味で重要(*).目標の単純化ができたら,そこに必要な技術,施工後のモニタリング項目,メンテナンス時のポイント(要)などを明確にすることができる. *ただし,ある人たちは,それまでの経験から問題点を瞬時に見抜くことができるようだ.自然再生の「匠」のようなものか?でも,匠も初めは失敗する.結局は試行錯誤を重ねることでしか,良いものは出来上がらない. ●自然再生の技術 技術は伝統的技術の場合も近代的土木工事の場合もあるが,自然の営力を想定した上でのポスト近代的土木工事.ソーラーパネルや安価な水中ポンプ,非アルカリセメント,水中用接着剤などとともに,急速に進化中.技術ってやっぱりおもしろい. ●主体の出会い,人材の集結,あるいはコーディネーターの存在 用いる技術,モニタリング手法,メンテナンスのポイントが明らかになったら,実施主体同士の調整となる.各主体同士が上手くコミュニケーションが取れたら良いけど,多くの場合はそうならない.匠はやっぱり頑固だし,各主体が円滑に役割を演じるためには,役割以外のこと(例えば連絡調整や資金調達,広報活動など)をさせないことが大事.ここでコーディネーターの存在が重要になる. コーディネーターに求められるのは,各参画主体を動かす「動機」を理解し,参画主体の作業を明確にすること.そしてコミュニケーション能力に代表される人間力. もしもコーディネーターが優れた知識と技術を併せ持つ人ならさらに理想的.新しい問題が生じたときに,対処方法を考案することができる.新しい参画主体が現れれば(あるいは能動的に確保できれば)役割を与え,技術を伝達できる. ●「集団意識(社会意識)」の醸成 小さな自然再生の技術は,ほんの少しの努力で実施できる.でも,意識がなければ「ほんの少し」も人は動かない.「問題があるから自然再生をする」という他所依存的な姿勢でなく,「自然再生をすることそのもの」が当たり前,という意識を集団(市民社会,企業社会,役場社会など)が持つようになることが理想的.「なぜ環境保全なんてやるの?」という疑問さえ無くなるような社会.ある意味怖いか. ●オートクチュールとプレタポルテ 岩瀬さんと浜野さんのアプローチの違い.岩瀬さんは「任されたところでできる限り完璧な仕事をする」,浜野さんは「できる限り完璧な仕事をどこでもできるようにする」というイメージ.技術者と研究者の違いとか,どちらが良いのかとか,そういうことではなくて単なる感想.やっていることは似ているし,本人達が感じていることも似ているのに,その違いがおもしろい. ●自己懐疑 やってて「本当にいいのかな」といつも不安,という岩瀬さんの言葉に,浜野さんらが同感していたけど,僕も同感.決断を迫られた場面には,決断するのだけど,不安がある時もある.というより,不確定要素が全くない,という場面は無いので,いつも不安.みんなそう思ってると分かって嬉しかった. ●自然と社会/問題の所在 今回の事例は,自然の中に問題がある自然再生.草原や二次林など,社会のなかでシステムが途切れている場合は,また違った話になるのか. #
by 6th-kingdom
| 2010-08-04 00:51
| 保全 -away-
朝から自宅の庭で車の音がするときは,たいてい何かめずらしいものがやってくる.今朝の来客は島川さんだ.「何かありましたか?」と聞くと,案の定,「これは何かの?」と車の中から大きなモノを取り出す. オニフスベだ!まだ見たことは無かったけれど,このキノコは間違いない.図鑑で見て,一度見てみたいとずっと思っていたものだ.シイタケのほだ木を放置したところに発生したらしい.持ってきてくださった個体はどちらも直径が約25cm.大きいものは直径が60cmくらいになるそうだから,まだまだ未成熟なのだろう.弾力があるので,今なら食用になるはずだ. 自然館の前に置いて写真を撮ってみた.次は生えているところをを見たいなぁ... #
by 6th-kingdom
| 2006-09-28 11:23
| 秋 -home-
一方で,あんどうさんからのご指摘のとおり,メディア独自で「【その後の保全策についての具体的な見通しが立った時】かどうかを判断することができない」というのも事実だろう.「記者個人のモラルや情報リテラシーの問題だ」と言ってしまえばそれまでだが,それでは同じことの繰り返しになってしまう. 理想的な形は「基準に該当する種(たとえばレッドデータブックに掲載されている種)の公開に際しては,関係行政機関(広島県なら県の環境保全室),専門家(レッドデータブックであれば,本に記載)および博物館施設(動物園・植物園・昆虫館・自然館 etc.)の意見を聞く」などのステップを内規として持っておくことだろう.そうすることにより,記事掲載に対する批判が出た場合にも,掲載に至る根拠を示せる.レッドリストに載っている種については,先の三者(特に専門家)に聞くことで,十分な情報を得られるのではないだろうか. また,これら三者から「掲載を見合わせるべきだ」という意見が出たとしても,メディアの製作主体が「掲載すべきだ」と判断できる材料があれば,記事は掲載されるべきであると考える.同じ「掲載する」という結論に至ったとしても,見合わせるべきだという意見を覆すだけの材料を検討するという点で「意見を聞く」というステップに意味がある. マスメディアにおけるこのような内規は,人権や個人情報に関わるものではかなり整ったものがあるのだと思うが,様々な取材を受けるかぎりでは,自然に関しては記者や担当者に判断が任されているのではないかという印象を受ける.ここでは自然のことを取り上げて議論しているが,他のことについても,記事掲載に関する姿勢がしっかりしている記者や製作主体ほどコンテンツへの責任意識も明確であるため,取材を受ける側も進んで情報を提供し,結果として良質のコンテンツを提供できるのではないかと思う.このことは,マスメディアだけでなく,ホームページなどで情報公開している個人にも当てはまることだ. 繰り返しになるが,今回の議論の発端になった記事についても,彼個人を批判することだけではなく,今後の予防策についての議論が必要なのだと考る.ただ,大前提として「ジャーナリズムの独自性」は認められるべきだと考えるので,外部からはあくまで意見・提案に留まるべきだろう. #
by 6th-kingdom
| 2006-08-24 01:44
| 保全 -home-
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